toggle
杉並区 バレエ教室  トサカバレエスタジオ

ポロヴェツ人の踊り

バレエ「イーゴリ公」よりポロヴェツ人の踊り について

バレエ「ポロヴェツ人(だったん人)の踊り」は、元々は歌劇『イーゴリ公』の一場面です。曲は1869年アレクサンダー・ボロディン作曲。
『イーゴリ公』第2幕のポロヴェツの陣営で、敵将コンチャック・ハンが負傷して捕らわれている主人公イーゴリ公の気晴らしにと宴席を設け、その余興として歌や踊りが華やかに繰り広げられます。
この場面ではポーロヴェツの若者と娘たち、戦利品として略奪されて来た娘たちが歌い踊り、前半と後半で繰り返されるエキゾチックな歌には、奴隷として連れて来られた人々の望郷の思いが込められています。

今回は1900年頃にマリインスキー劇場バレエ団でフォーキンが振付をした作品を登坂太頼が追加振付と再振り付けを行っています。
本来はイーゴリ公とコンチャック・ハンが登場しますが、踊りの部分だけに焦点を当てて上演します。

 

隊長
登坂太頼

副隊長
出口佳奈子

奴隷の娘達
佐川香 中込美加恵 宇羽野聡子 永森明穂
岡本茉莉子 水野沙也嘉 今井和奏 加藤日菜乃
佐藤帆莉 稲田彩 牧野咲良

ポロヴェツ人の少年
ベントリー・ソロ・かい

ポロヴェツ人の娘
竹市汐桜 鳥光結衣 永田桃奈子 藤崎果蓮
筒井真由 安達楓 井上瑚子 船橋凛
花岡千咲 田辺詩 伊藤杏 秦美嘉
安藤優希 伊藤結芽

嶋村結香 西美咲 杉山葵衣 牧野桃香
渡辺心春 安福夏奈恵 柴田くるみ 大澤來茉
加藤稟子 土岐美琴 浅沼未来 永岡ち尋
苅屋紬 大平紗椰 保見美月 疋田美結
藤巻遥香 嶋田妃陽 楢原愛子

 

 

オペラ『イーゴリ公』におけるストーリー

●プロローグ
<プチーヴリの広場>
イーゴリ公の先妻の子、ヴラヂーミルの領地、プチーヴリ。
この町からイーゴリ達、4人の公はポーロヴェツの侵入を防ぎ、ルーシ(南ロシヤ-現在のウクライナ-に住んでいた東スラヴ人の国の呼称) を守るために遠征しようとしている。
いざ出陣という時に日食がおこる。
イーゴリの後添えであるヤロスラーヴナは不吉だから出陣するなと懇願するが、イーゴリはヤロスラーヴナの兄、ガーリチのヴラヂーミルに後を託してプチーヴリを後にする。

●第1幕
<第1場・ガーリチ公の館の中庭>
イーゴリ達の留守中、プチーヴリを任されているガーリチのヴラヂーミルは郎党を引き連れ、昼日中から酒に浸っては町の娘をかどわかすような横暴を繰り返していた。
ヴラヂーミルはもし自分がプチーヴリの主だったら、贅沢三昧、美女をはべらせ思うままに支配するのに、と豪語し、さらわれた娘を解放するようにと請願に来た町の女達をも追い返す。
ヴラヂーミルを支持する男達は、彼をプチーヴリの公にしようと怪気炎をあげる。
<第2場・ヤロスラーヴナの館の居室>
出陣していったイーゴリ達の無事を願うヤロスラーヴナの元に、町の女達がガーリチのヴラヂーミルの横暴を訴えにやってくる。
そこへヴラヂーミル本人が現れ、イーゴリのいない今、プチーヴリの支配者は自分だ、とヤロスラーヴナを脅す。
苦悩するヤロスラーヴナの元に、貴族達がイーゴリ達の敗報とポーロヴェツ軍の来襲を伝えにやって来る。

●第2幕
<ポーロヴェツの陣営>
イーゴリ達が捕らえられているポーロヴェツ人の陣営では、イーゴリの息子ヴラヂーミルとコンチャークの娘が恋仲になり、将来を誓い合う。
一方、イーゴリは遠征軍を壊滅させ虜囚の身になった己の不甲斐なさをかこち、妻の身を案じ、自由でさえあれば再びルーシのために戦うのに、と苦悩を吐露する。
ポーロヴェツ人でありながら、キリスト教徒である若者オヴルールがイーゴリの闘志を鼓舞し、脱出の機会を待つよう彼に告げる。
しかし、イーゴリの武人としての矜持が逃亡という行為を許せず、決意を固めることができない。
イーゴリ達を捕らえているポーロヴェツ人の長、コンチャークはイーゴリ達を虐待することなく、むしろ豪胆かつ寛大にもてなす。 コンチャークはイーゴリにルーシを裏切り、自分達にくみするようにと説得するが、イーゴリは待遇に謝意を表しつつもコンチャークと手を組むことは断固拒否する。
イーゴリの武人としての態度に惚れこんだコンチャークは急遽宴席を設けさせ、奴隷達に歌舞を披露させる(だったん人の踊り)。

●第3幕
<ポーロヴェツの陣営>
ポーロヴェツ人の別の長、グザークとその一隊がルーシの町々を略奪して凱旋して来る(だったん人の行進)。
コンチャーク始め、ポーロヴェツ人達が勝利に酔う一方で、囚われのルーシの人達はイーゴリにここから逃亡してルーシに帰り、祖国を滅亡の危機から救って欲しいと懇願する。
脱走の決心を固めたイーゴリはオヴルールに手はずを整えさせる。
共に逃亡するはずであるイーゴリの息子ヴラヂーミルの元にコンチャコーヴナ(コンチャークの娘)がやって来て、ここに留まるか、さもなくば自分も連れて行くようにと哀願する。
イーゴリはヴラヂーミルには行動を共にするよう、コンチャコーヴナにはヴラヂーミルを行かせるように説得するが、二人は離別を受け入れることができない。
脱走の頓挫をおそれたイーゴリはついに一人でその場を去り、ヴラヂーミルも脱走するのではないかと危惧したコンチャコーヴナは警報を鳴らしてしまう。
イーゴリの逃亡が発覚し、ポーロヴェツ人達はヴラヂーミルを処刑しようとするが、コンチャコーヴナがそれを許さない。
その様子を見てコンチャークはヴラヂーミルを娘婿に迎え、明日ルーシに出陣すると一同に言い渡す。

●第4幕
<プチーヴリの城壁と広場>
プチーヴリではイーゴリの妻ヤロスラーヴナが城壁にたたずみ、帰らぬ夫とその軍が惨敗した戦に思いを馳せて嘆いていた。
ポーロヴェツの略奪によって疲弊した農民達が歌いながら通り過ぎていく。
その様子を眺めていたヤロスラーヴナは、こちらへと馬を走らす二つの人影を認める。イーゴリとオヴルールである。
二人のグドーク弾きが鐘を鳴らしてイーゴリの帰還を町中に知らせ、人々はイーゴリの帰還を喜び祝う。

 

 

〜「韃靼(だったん)人」と「ポロヴェツ人」〜

日本では「だったん人の踊り」として定着した曲の本来の名称は「ポロヴェツ人の踊り」です。
「ポロヴェツ人の踊り」を「だったん人の踊り」と呼んでいるのは恐らく日本だけで、その他の地域では原題通り、「ポロヴェツ人の踊り」と呼ばれています。
このポロヴェツ人という民族はテュルク系の遊牧民族であり、物語の舞台は南ロシア、現在のウクライナ共和国、時代は12世紀末のことです。
それでは、なぜ、「ポロヴェツ人の踊り」が「だったん人の踊り」に変えられたのでしょうか?
『イーゴリ公』の物語の約20年後にチンギス・ハンが遠いモンゴル高原を統一します。
そのチンギスの息子達に率いられたモンゴル軍が1223年にはカフカスを越えてルーシ(ロシアの古名)に襲来し、ルーシとポロヴェツの連合軍は破れます。
このモンゴル軍はルーシの人々には未知の民族で、彼らのことをルーシの年代記で「タタール」と呼んでいます。
このタタールという言葉は現代、広義ではロシアでの東洋系の異教徒、異民族の総称であり、狭義では主にロシア連邦内のタタールスタン共和国などに居住するテュルク系の諸民族を指します。
広義においてはテュルク系もモンゴル系もみなタタールであり、後の時代から見れば、テュルク系のポロヴェツもタタールになってしまいます。

おそらく、日本に「ポーロヴェツ人の踊り」が初めて紹介された際に、馴染みの少ないポーロヴェツをタタールに、さらにタタールを韃靼(だったん)という漢字に置き換え、異国情緒を駆り立てたのだろうと推測することが可能です。